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北九州連続監禁殺人事件を斬る 〜なぜ家族同士が殺し合ったのか〜

  1. 2008/05/20(火) 23:00:53|
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北九州連続監禁殺人事件の松永太・緒方純子に対する容疑は7人の致死・死体遺棄。2004年05月の一審、2007年09月の二審ともに松永は死刑、緒方は一審では死刑が下ったものの二審では無期懲役に減刑された。致死後遺体をバラバラにして鍋で煮込み投棄するという残忍性のみがクローズアップされるが、この事件の真の恐ろしさはもっと別のところにある。実際松永は7人の致死に関しても、死体遺棄に関しても一切手をくだしてはいない。(直接関与したのは緒方)もちろん松永死刑の判決は妥当と思われる。(緒方の無期に関しては一部疑問が残るが・・・)この事件を調べてゆくと松永にかかわった人間はまるで催眠術にでもかけられたように財産を投げ出し自ら命を絶ってゆくように思えた。作家の佐木隆三氏もいっているようになぜ家族同士が殺しあったのかという点がまず理解できない。松永は彼自身もいっているように本質的には詐欺師である。私も最初はこの事件に巻き込まれた人はお人よしな騙されやすい人間だとおもっていたが、どうやらそうではないらしい。緒方純子は「松永は肩書きのあるような人でも従わせていた」といっているし、一番決定的なことは義弟の主也(かずや)氏が元千葉県警警察官だった点だ。確かに松永も最初は義弟の主也氏を警戒していた。だが主也氏もいつのまにか思うがままに操られ、最後は松永に「元警察官たるものが!」と罵倒され衰弱死していった。もし私が、あるいはあなた方読者が松永と対峙したとしたら、果たして逃れる術はあるのだろうか…?

<幕開け>
2002年3月6日北九州市門司区で17歳の少女が警察に保護された。おじおばと名乗る謎の中年男女の元を逃げ出し実祖父母に助けを求めた。事情を聞くと監禁され父親も殺されて海に捨てられたという。まもなく張り込んでいた警察におじおばと名乗る謎の中年男女は身柄を拘束された。容疑は監禁致傷罪。初公判は2002年6月3日に行われたが、罪状認否(公訴事実について意見を求めること)は黙秘。これは何を意味するか?控訴事実以外になにか重大犯罪を予見させた。事実、第2回公判(同年7/31)より第3回公判(2003年5/21)まで約10ヶ月間公判は延期された。

<鉄の仮面の女>
おじおばと名乗る謎の中年男女は逮捕後一切黙秘しつづけた。能面のように生気のない女は“鉄の仮面”とよばれ堅く口を閉ざした。女の左ほほにはアザがあった。しかし福岡県警の捜査により徐々にその素性が明らかになってゆく。男の名は松永太(ふとし)(41)、女は緒方純子(すみこ)(40)。二人は内縁関係で松永は過去詐欺容疑で指名手配だった。だが逮捕から半年後、緒方純子から鉄の仮面が剥がれ落ちた。捜査員の真意な言葉に突然嗚咽をあげて泣き出し「緒方家の名誉のためも本当のことを話ます…」と。

<出会い>
昭和55年の夏、久留米市の資産家である緒方家の長女・純子のもとに一本のでんわがかかってきた。「おれだよ、ふとしちゃんだよ…」高校の同級であった松永からの誘いだった。松永はハンサムで頭もよく弁論大会で優勝するほど話術にたけていた。実家の布団屋を継ぎそこから手広くビジネスを広げる青年実業家だと話していが、実上は従業員を暴力で支配し詐欺的商法を繰り返していた。純子はそのころ幼稚園の先生をしていた。「高校の卒業文集を見てでんわしたとね・・・君の素朴なとこが好きとね」うぶな純子が松永に騙されていくには時間がかからなかった。

<松永バンド>
松永は東京の音楽プロモーションから誘いがあるくらい音楽の才能があると豪語しており、自らホールを貸しきってコンサートを開催するほどだった。だがこれも女を騙すための手だったようだが、純子は当時そのクリスマスコンサートの会場で松永の最初の妻とあっている。松永の妻は妊娠していたらしく「そのときちょっとヤキモチらしい感情があった」といっているから松永に多少は惹かれ始めていたようだ。松永は一曲歌うたびに観客席に手を振り「最高のイブ!」と繰り返した。だが松永のうたはただ絶叫するだけで、練習でも「音がずれてます」などというと顔を真っ赤にしてなぐりかかり「お前らがおれのうたにあわせろ!」とアニメのジャイアンのごとくいうのだった。そしてメンバーも松永の会社の従業員たちで楽器が全然できないにもかかわらず暴力と通電で脅され無理やりやらされたものだった。

<通電>
電気コードの先端にクリップがついており、その両端を人間の部位につなぎコンセントからの電流を流す。もちろんづっとやり続けると感電死してしまうので瞬時のみ電流を流す。激痛が走り目の前は真っ白になり患部は焼けどをおこしひどい時には水ぶくれになる。スタンガンと同じ効果だ。もともとは松永の会社”ワールド”の従業員があそびでやっていたものらしいが、松永はこれを応用させて人間を支配していった。純子も幾度の松永からの暴力と通電により次第に自我を崩壊させていった。

<詐欺監禁>
松永の手法はこうだ。まず対象者に言葉巧みに近づく。対象者を信用させ内縁関係等を結ぶ。ここまでなら結婚詐欺だが松永の場合、監禁し暴力や通電を加えその対象者の周囲すべてから金をかき集めさせる。松永はこの対象者を「金主」とよんでいた。純子は共犯者でありながら同時に松永の「金主」でもあった。

<A子さん>
松永には7件の監禁致死罪のほかにも起訴されていない事件がたくさんある。A子さんに対する監禁致傷容疑である。
「京都大学を卒業して物理学を研究している村上(偽名)です・・・」
初めて会ったときは誠実そうに見えたという。そのうちホテルで逢うようになり、ワインレットのアタシュケースからビデオをとりだしアインシュタインみたいな人が講義している物理学のビデオを見せられた。もうこの時点で明らかに怪しいのだがA子さんはすっかり信用してしまったようだ。やがて村上(松永)は仕事をやめ「小説を書くからどこか落ち着いた場所に部屋を借りてくれ」とA子さんを承諾させた。部屋を借りるとすぐさま純子を呼び寄せ、姉と偽り同じ部屋に間借りさせた。そのとたん松永は豹変し髪の毛をつかむ殴るなどすさまじい暴力が始まり、A子さんとその娘は松永に監禁されるようになった。しかし半年後たまたま開いていた2階の窓から飛び降りて逃げ出し、元夫のところに救いを求めた。気がついた松永は警察を察しすぐさまA子さん元夫の自宅付近に「大人になったらぶっ殺す」と娘を置き去りにして逃亡した。A子さんはあまりの恐怖体験のため精神に異常をきたし、警察に被害届をだすことはなかった。

<一人目>
そんな詐欺と監禁を繰り返していた松永は新たなターゲットに目をつけた。監禁に使った部屋を引き払う際、不動産会社社員に10万円を渡し強制退去した。その社員こそ第一の被害者服部清志さん(仮名)だった。松永の人間観察能力は鋭い。この時「この不動産会社社員は金のためならなんでもするヤツ」と、すかさず架空の投資話を持ちかけた。鎌かけは思ったとおり、清志さんは内容も確認ぜず数日後30万をもってきた。松永は最初に清志さんを褒めちぎり”所長”とおだて毎晩酒を振舞った。その中で相手の弱みを見つけだす。清志さんは酔った弾みで時たま退去時の消毒費用をちょろまかしていたことを話した。松永はそこに付込み“事実関係証明書”なるものを書かせた。これは松永が人を支配する上での特筆パターンでる。その後も清志さんの職場で百万円がなくなるという話を聞き、これもお前がやったと難癖を付け“事実関係証明書”を書かせている。(実際はやってないらしい)だがそれをネタに清志さんを脅し、金を工面させ約1千万集めさせた。そして清志さんとその娘の恭子(仮名、当時10歳)も監禁し通電と暴力で思うがままに支配した。ではなぜ逃げられなかったのか?清志さんも金集めのため外出しているし、娘の恭子も学校へ通っている。それは以下のような巧妙な手口だ。松永は娘の恭子に”チクリノート”なるものを渡し「これにお父さんの悪いところを一日10個書け」と強要した。松永は恭子に「お父さんは金を集めるのが仕事、お前はお父さんが悪いことをしていないかチェックするのが仕事」。人間は些細な事でも役割を与えられるとそれを遂行しようと考える。仕事を達成したとき適度なご褒美(アメ)を与え、サボると叱責(通電)を加えた。そうすることにより親子関係は寸断しお互いが松永を中心とする社会を形成する。けなげな恭子はチクリを10件もかけなくて嘘の報告を松永にした。そのひとつが性的悪戯をされたというデッチ上げによる“事実関係証明書”だ。さらには松永は恭子に「お父さんに噛みつけ」と脅し本気でやらないと罰として通電を加えた。こうして清志さんは日増しに衰弱していった。手足は度重なる通電のためケロイド状態になり肉がそげ骨が浮き出ていた。排泄制限にも耐えられなくなり糞尿をもらした。サディスディックな松永はそれを清志さんに食べさせた。松永の供述によれば「あるとき清志さんのまわりに大便らしいものが落ちていました。これは大便ですかとたずねると『いや違います』と。では食べられるのですねというと『はい、食べれますよ』と意地をはって本当に食べてしましました。決して強要したわけではありません・・・」
死人に口なしだがまるで小学生のようなじゃれあいのような話だ。おそらくこんな悠長なやりとりはなく松永の恫喝で行われたのだろう。度重なる通電と暴力により清志さんには抵抗する気力や体力も残っていなかったのだ。そして衰弱のため1996年2月26日、亡くなった。その遺体には噛み付かれた傷があり、それを元に恭子に「お前が噛み付いた傷が原因でお父さんは死んだんよ。バレたらお前は死刑になる」と思わせ、“事実関係証明書”を作成させた。遺体は純子と娘の恭子で細かく解体され、鍋で液状になるまで煮込まれ、海や公衆便所に捨てられた。松永は「”供養のため”うんと丁寧にやるんよ」と指示していた。

<湯布院事件>
純子も例に漏れず松永から暴力と通電を受けていた。自殺未遂をしたこともあった。逃げたこともあった。そのひとつが湯布院事件である。純子は子供(松永との子)を叔母にあずけ、大分の温泉町湯布院に逃れた。運よく親切な人と懇意になりスナックで働くことになった。無事であることを妹の理恵子に伝えると、こんなことばがかえってきた「おねえちゃん、松永さんが自殺したと。すぐ帰ってきて」。純子も松永の死に「ああ、これで何もかも終わったんだ」と安堵と悲哀をもって帰途についた。緒方家全員が出迎える先には松永の遺影があり、線香がたむけられていた。純子に向けた遺書もあった。それをしみじみ読んでいると、突然押入れから死んだはずの松永が現われた。「残念だったなあ。・・・みんなかかれ!」その号令とともに家族が襲い掛かってきた。まず最初に妹の理恵子が足をおさえ、家族が馬乗りになった。純子は自分の家族にも裏切られた絶望感と松永からのすさまじい暴力により意識を失った。この時点ですでに緒方家は松永に支配されていたといってよいだろう。

<二人目三人目>
豊田氏によるとおそらく次のように松永に扇動されたのではないかと語っている。純子がいなくなると松永はすぐさま緒方家に押しかけ服部清志さんの致死・死体遺棄を純子がやったことだと緒方家を動揺させた。そしてまた純子を守れるのは自分だけだといい、自分が自殺したことにして純子を呼び戻すことを提案した。緒方家にとって自分の身内から殺人犯を出さぬため、そして純子を守るために松永に従ったものと思われる。かくして緒方家の家長である父・誉(たかしげ)さん、母静美さん、次女理恵子さんは頻繁に家族会議のため松永もとに訪れるようになった。家族会議といっても明け方まで酒を飲みどうしたら(純子の)逃亡資金を作れるかの話し合いをさせた。ここでも松永はお互いの人間関係を就く。松永は純子と別れてもよいと提案する(もちろん手切れ金込み)しかし直前で(松永と純子の)子供たちは松永が引き取るという条件をつけた。純子は子供たちを松永にとられるくらいならなら自分を抑えて松永についていくといいだした(これも松永の思惑通り)。結局松永は”別れたいのに”別れられない迷惑料と逃亡資金を緒方家からせしめることに成功する。父・誉さんは金を捻出するために農協から3千万を借り入れ先祖代々の田畑も売却しようとした。これに気づいた誉さんの実弟は田畑に仮登記を設定しこれに対抗した。松永という不気味な男が見え隠れするこの一件に、実弟は誉さんに目を覚ますよう促した。豊田氏はこの件について実弟と争った誉さんは、松永に強要されてでなくある意味信頼してやったのではないかといっている。事実誉さんは「松永さんは信頼できる」とか「こうなったら松永さんにぶら下がって生きていくしかない」ともいっている。家長である自分よりも松永の“天才的なキレ”に絶対的な尊敬心をもっていたのではないか。もうひとつ緒方家を支配できた理由があった。女たちである。松永は純子だけでなく妹の理恵子、そして母静美とも肉体関係をもっていた。最初はおそらく強引に関係を迫られたようだが、驚くことにこの関係は長く続いていた。関係をばらされるのを恐れてか、女たちを通じ緒方家を思うがままに操ることができた。そして1997年12月21日、姪の彩(10才)がポン酢探せずにいたことをきっかけに誉さんを通電。娘・純子からの通電によりショック死した。遺体は家族により数日の間で解体され、鍋で煮込まれ捨てられた。母・静美は夫の死や通電により気がふれて奇声を発するようになっていた。1998年1月20日義弟・主也(かずや)によって電気コードにより絞殺され死んだ。遺体はまた解体され鍋で煮込まれ捨てられた。

<四人目五人目>
松永はこのときも“殺せ”とか“始末しろ”ともいっていない。奇声を発する静美さんを前に「このまま騒がれて警察にばれたらどうする?」。この間接的な暗示(バレないようにするためには殺すしかない)を実行者に植え付けていった。通電、食事制限により妹・理恵子も耳が遠くなっていた。あるとき松永の指示内容をめぐり娘・彩(10才)と口論になった。これをきっかけに「理恵子も頭がおかしくなっとるとね。どうすればいいかお前ら(純子、主也、彩)で考えろ!」といい「俺が起きるまでに終わらせとけ」と浴室に押し込めた。(浴室が被害者の監禁場)あたり前だがこのとき純子も主也もできれば自らの手を汚したくはなかった。ここで純子は次のようなことを考えた。「理恵子を殺しますか?」と松永に聞きに行くことだ!簡単な論理学のパズルであるように「理恵子を殺しますか?」という問いに松永は「そうしろ」とは言わない。なぜなら“松永は殺害に関する決定や指示を直接はしない”からだ。しかしこの試みは実現しなかった。浴室のドアノブが壊れて運悪くドアが開かなかったため”松永に聞きに行く”ことができなかった。松永は3〜4時間で起きてくる。それまでに“終わらせなければ”通電を受けることになる。かくして純子と主也にとって残された方法はひとつしかなかった。“殺す”ということ。浴室の洗い場の上で寝ている理恵子の足を娘の彩が押さえ、主也は上から首に電気コードを巻いた。目を覚ました理恵子は「かずちゃん、私死ぬと・・・」と涙を浮かべた。(同年2月9日)
主也は度重なる食事制限や通電のため足が動かなくなっていた。駐車場まで行くときもまともに歩けず道路に何度もしゃがみこんだ。死の数日まえ主也は、松永の愛人宅に向かうよう車の運転を指示された。ファミリーレストランで時間をつぶすよういわれ、なるべく量の多いものを頼むよう指示された。その間主也と純子はどんぶりとうどんのセットを注文した。時間がたっても松永が戻ってこないため、また携帯で指示を仰ぐと追加でなにか注文しろといわれ、さらにメンチカツを注文した。そのときはたらふくたいらげ元気だったのだが、翌日、滝のように嘔吐しだした。松永は油っこいものばかり食べるからそうなるんだと怒り通電を加えようとしたが、衰弱がひどかったので胃薬をのませて娘・彩に様子を見させた。そのうち顔も上げられぬほど弱り胃薬も飲めなくなった。それから松永が値段の高い栄養ドリンクをもって様子をみに浴槽にいった。数分して出てきたとき「(高価な)栄養ドリンクとビールなら飲めたぞ」と300mlのビール缶をカラカラ振ってでてきた。本当に自力で飲んだのか、松永に無理やり飲まされたのかは誰も見ていなかったが、約1時間後主也氏は絶命した。(同年4月13日)

<六人目七人目>
「お父さんが死んだみたいです」彩は顔面蒼白で松永にそう報告した。この時点で松永と純子を除いて子供たちばかりになっていた。主也氏の遺体処理後、すぐさま優貴君(5才)と彩ちゃん(10才)に処遇について話し合いが行われた。純子は彩と優貴を親族のもとに返すことを提案したが、松永の考えていることはひとつだった。源義経を生かしておいたことが平家の滅亡につながった逸話をもちだし、優貴君らを返そうとは考えてはいなかった。そして同年5月17日優貴君を電気コードで絞殺。実行犯は純子と彩。彩は優貴君に「お母さんの所に連れて行ってあげるね」と首に電気コードを通した。松永は遺体解体の道具を買いにいかせる際、「道具は多めにかって来い」と指示した。「彩にはあまり食事を与えなくていい」とも。次に松永は彩への顔面への通電(もっとも思考能力を失わせる)および巧みな話術で『死にたい』と思わせていった。自分の母や弟を殺害してしまった10歳の少女に、もはや生きる希望はなかった。そして同年6月7日彩殺害。実行犯は純子と恭子。電気コードをクビに巻きつかせる際、彩自ら首を持ち上げたという。こうして緒方家の人間は半年の間に全員いなくなった。

<逮捕までの4年>
松永たちはアジトを転々としながら詐欺行為を繰り返し生活していた。中学卒業後恭子(一人目の被害者服部清志さんの娘)は松永の子供たちの世話をさせられていた。そしてついに恭子は松永から逃げようとする。そのときの話はあまりにもショッキングなのでここでは割愛させてもらう。そして冒頭の逮捕につながるわけであるが、恭子はなぜ松永に殺されなかったのか、そしてまた逃げることができたのか?松永のマインドコントロールに隙があったのか?一回目の逃亡時、祖父母の家に身を寄せていたが、そのときは事件に関しては一言も話さなかった。2度面の逃亡の際、祖父から「お前のお父さんは殺されてもう死んでいるんじゃないか」と鎌をかけられ号泣するまで少なくとも松永のマインドコントロールは解けていなかった。読者の方も気づいていると思うがこの事件は“北九州監禁連続殺人事件”とあるがこれは適切ではない。なぜなら監禁といっても完全に隔離されているわけではない。殺人ではあるが、限りなく自殺や病死に近い。ではいったいなんだったのだろう。

<心的外傷と回復>
その真相をとく鍵はジュディス.L.ハーマンの「心的外傷と回復(Trauma And Recovery)」の中にある。この本は臨床医師でもある彼女のナチ・ホロコーストや戦争被害者、レイプ被害者、宗教カルト、幼児虐待の関しての研究の大著である。彼女も著書の中でいっているように「監禁状態とは物理的障壁が存在しない場合も非常に多い」ということだ。

−−−−逃亡を防ぐ障壁は通常目に見えない障壁である。しかしそれはきわめて強力である。監禁状態とは犯人と被害者を長期接触させ、特別なタイプの関係をつくりだす。−−−−

これは突き詰めてみれば自分たちの周りに多く存在する。例えばクラスのいじめ、家庭内暴力、パワハラ・・・。被害者はその“関係性”に翻弄さて時には自殺さえしてしまう。ではその目に見えない監禁状態をつくるプロセスとはいかなるものか。ハーマン医師によれば、心理的支配(被害者の奴隷化)の方法は世界中の報告からして驚くほど同じで「一人一人独特でありながらしかもよく似ている」とある。アムネスティインターナシュナルは強制の方法を具体的に記した「強制の図式」を出版している。

−−−−自分以外の人間の完全なコントロール方法は何であろうか。その基本線は心的外傷ををシステマティクに反復して加えて痛めつけることである。それは無力化と断絶化(対人関係との切り離し)を組織的にも用いるテクニックである。心理コントロールの方法は恐怖と孤立無援感を注入して被害者の「他者との関係においてある自己」という感覚を破壊するようデザインされている。−−−−

まず無力化であるが被害者を抵抗または逃亡できない状態にすることである。これは暴力を用いるのがてっとり早いように思われるが、そうではない。あくまでも暴力は最後の手段で、それよりも効き目があるのは“脅し”である。例えば、子供を殺すぞ、(強姦して)関係をばらすぞ、などである。人間は“関係性”の中に生きている。自分に対する暴力の障害からは(死に至らなければ)やがて完治できるが、例えば愛するものを奪われるとか、自分の体面を犯されることは一生背負わなければならないハンディキャップと考える。がゆえにこの“脅し”は相当の効力を発揮する。
それとともに、この事件での特筆は通電という手法がもちいられたことだ。これは絶大な威力を発揮し「学習性無力化」を生じさせる。これは心理学者レノア・ウォーカー博士がとなえた説で、檻に閉じ込めた人間や犬などに電気ショックを与え続けると当初は逃げようとしても次第にそれが不可能だと学習し、無抵抗になってゆく。そしてしまいには扉をあけても檻からでなくなる。
また恐怖を増大させることも有効となる。暴力を規則性がない形で爆発させるとか、どうでもよい細かな規則性を気まぐれに強制するという方法である。例えばポン酢が探せなくて通電が始まったり、食事制限(パン6枚を7分以内に食べなければ通電)などがあてはまる。こうやって被害者は、支配者は万能であり、抵抗は無益であり、その生死は絶対の服従によって支配者の関心をかえるかどうかにかかっていると思うようになる。すんでのところで殺されるはずだったが最後の瞬間にまぬがれたと思い込ませることによって被害者は支配者を命の恩人とさえ思う倒錯に陥ってしまう。こうすることにって被害者の自立性の感覚は粉砕されてゆく。


次に断絶化(対人関係との切り離し)であるが「被害者が他の人間的なつながりを保っている間は加害者の力は或る限度内にとどまっている。このため加害者は被害者を他の一切の情報源、物理的支援、感情的支援から遮断して孤立させようとする」。例えばDV加害者は以前のボーイフレンドとの思い出の写真、親友の電話番号、メールアドレスを被害者の目の前で消去させ、自分へ偏愛情を強要するケースが多い。加害者への愛情を確認させるため、被害者自らに暴言を吐かせ友人関係を破棄させる例も多い。こうすることによって被害者は加害者との関係が唯一となる。まさに緒方純子もそのとおりで他との関係を絶たされていった。
さらに松永は緒方家を支配するために序列化をもちいた。通電される者は必ず最下位の人間で,、その場合必ずその理由が述べらた。松永を頂点とする社会においてどんなに些細であれ、NGを出された行為に対して通電が加えられた。その理由はなんでもよい。たとえば「はい」と返事をするときに「あっ、はい」といったり、台所のお菓子をちょっと食べただけでNGと判断された。お互いを監視し報告することを強要し、密告があった場合その報酬として<アメ>があたえられ、通電を免れることができた。緒方家は松永を頂点とした序列化のなかで個人個人が孤立化し、いわばお互いがライバルであった。これはナチ・ホロコースト強制収容所で囚人(ユダヤ人)でありながら弱いものをいたぶり、ナチスの手先となって仲間の囚人たちを監視し暴力や殺害をくわえる「カポー」という存在と酷似している。
そしてハーマン医師によると「被害者の心理的支配の最終段階は、被害者自らが倫理原則を自らの手で侵犯し自ら基本的人間的なつながりを裏切るようにさせて初めて完了する」

−−−−心理学的にはこれはあらゆる強制のテクニックの中でもっとも破壊力が強いものである。屈服した被害者は自己を嫌険し憎悪するようになるからである。−−−−

緒方家は父・誉(たかしげ)さんの死体遺棄に関与した段階で、すでにこの最終段階に達していたと思われる。ナチホロコースト犠牲者の治療をおこなった精神科医ヘンリー・クリスタルはこの状態を「ロボット化」と名づけた。これは心理学的に「絶対的受身の態度」であり「いきながらの死者」といわれる。

−−−−この退化点に達した囚人はもはや食物を探そうとも暖をとろうともせず、殴られるのをさけようともせず、いきながらの死者とみなされた−−−−
松永はこういった虐待に関する書物や人体の解剖に関する図鑑なども読んでいたようだ。きわめて高い知識をもっていたといえる。だが松永は重犯罪者である。やはり特別で異常な人間なのだろうか?

−−−−政治学者ハンナ・アーレントは、人類に対する計り知れない深い罪を犯したアドルフ・アインヒマンが十人以上の精神科医によって正常という折り紙をつけられたことを報じて世間を騒がせた。・・・犯人は権威的で、秘密主義で時には誇大的で、あるいは偏執症的であろうが、社会規範に対してきわめてよいセンスをもっている。・・・このようにまともに見える男が大それた犯罪を犯すことがありうると思う人はほとんどいない−−−−

我々はこういった重犯罪者が異常であってそれとなく危険性を予知でき、犯罪を予防できることを望んでいる。正常な人間との“切り離し”をおこなうことによって自分の住む世界の健全性を保とうとする。しかしそれは無駄だということだ。なぜならこの手の危険な人間こそ、きわめて高い知識と常識を踏まえた外面をもっているからである。

引用−−部分<ジュディス.L.ハーマン「心的外傷と回復(Trauma And Recovery)」(みすず書房)より>

<松永の人生のポリシー>
いったい松永とはどういう人間なのか?豊田氏の著書の中で松永の思考・行動パターンを知るうえでの“人生のポリシー”なるものがある。検察側も非常に重視してわざわざこの調書を法廷で朗読したらしい。
「私(松永)はこれまでに起こったことは全て他人のせいにしてきました。私自身は手を下さないのです。なぜなら、決断をすると責任をとらされます。仮に計画がうまくいっても、成功というのは長続きするものではありません。私の人生のポリシーに『自分が責任をとらされる』というのはないのです。(中略)私は提案と助言だけをして旨味を食い尽くしてきました。責任を問われる事態になっても私は決断をしていないので責任を取らされないですし、もし取らされそうになったらトンズラすればよいのです。常に展開に応じて起承転結をかんがえていました。『人を使うことで責任をとらなくて良い』ので一石二鳥なんです」
無類の女好きである松永に若手美人検察官が投入され、調子にのってこのポリシーを雄弁に語ったらしい。

また松永は詐欺については容疑を認めており、“詐欺は最高のテクニック”と豪語している。松永には多数の愛人がいたが、まだ暴力を受けていない女性は「あの人がそんなことをするはずがない」といっていたという。どんなにささいな愚痴話も真剣にきいてくれたという。
実際、亡くなった静美さんも「あの人(誉さん)は世間体ばかり気にして・・」と松永に家族の愚痴話をしている。また理恵子さんにしても、主也さんと結婚する前に違う男性と間の子供を堕胎していたという話を松永にしている。理恵子さんの大親友にさえもしていなかった話を松永は聞き出しており、豊田氏も松永のその才能に驚いている。そして松永はそれを支配の道具にする。例えば緒方家に婿養子に入った主也さんの側に立ち、理恵子さんが堕胎していた件や、誉さんが義理の息子にいつまでも土地権利を譲らないをことを告げ「あなたは騙されているんですよ」と煽り、「殴ってやったほうがいいですよ」よけしかけ、主也さんも誉さんや理恵子さんの頭をポカポカ殴っている。また逆に理恵子さんから“主也が明け方にセックスをもとめてきて困る”などの話を聞き「無理やり迫るとは何事だ!女性を侮辱している!」と難癖をつけ、今度は主也さんを攻め立てている。当然のことながら夫婦間は最悪の状態になる。元警察官であった主也さんでさえ奴隷化されていった理由はこうした心理的ダメージによるものだった。
その他母・静美さんが仕事帰りの主也さんに対して手伝えといわんばかりにレタスを広げるなどの話や、誉さんが孫・彩ちゃんのおねだりしたものを買ってやらなかったことに対して「おじいちゃんなんか死んじゃえ」といった話を逐覚えており、それをネタに家族同士いがみ合うよう仕向けていった。
どこの家庭にもある嫁姑、親子、夫婦問題だ。松永はそういう些細なことから溝を深め、家族を寸断していった。だから緒方一家は一丸となって松永に対抗することなどできなかったのだ。自分が思うに、通電という暴力よりも、心理的な対立を作り出すことこそに、この事件の、松永の、恐ろしさを感じないだろうか。

<最終意見陳述>
平成17年5月18日公判の一審結審前には最終意見陳述が行われた。とても真に迫る内容なので、以下緒方被告のその全文を引用したい。
「松永と過ごした20年間は、社会から離れて生活していました。そのせいか逮捕されて身柄を拘束されても、特に不自然は感じませんでした。でも私が松永から精神的に開放されるまでには、長い時間かかりました。当初は自分の殻を頑なに守っておりましたが、一日一日いろいろなかたと接し、挨拶に始まり、会話を重ねるうちに、少しずつ心が穏やかになるのを感じました。おかげで私はかわることができ、松永の呪縛から逃れることができました(捜査員、検察官、弁護人の名前をひとひひとり読み上げる)それらの人との出会いがなければ、今の私はありませんでした。深く感謝しております。20年間で失った自分を、3年間で取り戻せました。本当にありがたいと思っています。私はすべての真実を知っているわけではありません。また一人一人の心のうちを知っていたわけでもなく、まして、その本当の辛さ苦しさを分かっていたともいえません。それでも亡くなった被害者のお一人お一人のことを、できるうるかぎり話す義務があると思い、代弁者になろうと公判で話してきました。そしてそれは、亡くなられた方々の無念を晴らすまでにはいたらなくても、ほんの少しの慰めることになるのではないかとという償いの意味もありました。いま思うとすべてが異常でした。今の私は、あの当時の自分が信じられません。どうしてあんなことができたのだろうと思いますが、私が自分で犯した罪には違いありません。私には二人のこどもがおります。これから一生を通じ、広く世間の皆様に育てていただくことになります。彼らが生きてゆく社会がよりよいものであって欲しい。そして、その思いは今、すべての子供たちに向かっております。子供が巻き込まれた事件を耳にするたびに、わが身を苛まれ、いたたまれなくなります。どうか子供たちを取り巻くこの社会が、少なくとも子供たちにとって安全で、より良いものであって欲しい。私は優貴くんと彩ちゃんのことをよく考えます。そして自分の罪の重さと悔悟の念からそれを切に願うようになりました。人生をやり直すことはできませんが、自分のこの罪を通して私も何かできないかと思っております。もちろん、私の自己満足に過ぎないのですが、時間の許す限り、このような私にもできる事をこれから考えていこうと思っております。振り返りますと、たくさんの方に御迷惑をおかけし、傷つけてきました。ワールド時代の頃のことも私の消えない罪です。本当に申しわけないことをしたと悔いております。また服部恭子さん、宮田貴子さんにも心からお詫び申しあげます。それから御遺族の皆様、そのお心に計り知れない、そして生涯消えることのない傷を負わせてしましましたことを大変申しわけなく思っております。そして亡くなられた方々に深くお詫びいたします。私の罪が、この命ひとつで償えるほど軽いとは思っておりませんが、どうぞそれでお許しください。最後にこのような大それた事件を起こしましたことで、広く世間の皆様に御迷惑をおかけいたしましたことを心からお詫びいたします」


ここには自分の犯した罪と向き合い、心から戒心している人間の態度が伺える。傍聴席は水を打ったように静まり、感極まって涙ぐんでいる人もいたという。ただ私としては一審の判決を支持し死刑相当を考える。なぜなら連合赤軍・永田洋子の例をみても、たとえマインドコントロールが完璧であったとしても人間の残虐性は否定できない。恭子(一人目の被害者服部清志さんの娘)が緒方純子も悪魔にみえたといっているように、松永の犯罪を成立させる上で緒方純子は欠くことができない存在なのだ。何にも増して将来ある彩ちゃん優貴君を手にかけてしまった責任は決して消えないだろう。

さて、ではなぜ恭子は松永に殺されず、そしてまた逃げることができたのか?緒方純子同様松永の奴隷であったことには変わりない。ただひとつ違ったことは・・・“父親との思い出の写真を肌身はなさず持っていたこと”だった。それは、マインドコントロールを断ち切る方法―すなわち、外部につながっている物質的なしるし(愛する人たちのイメージ)を忘れなかったということであった。

<あとがき>
一審判決では「犯罪史上まれに見る凶悪かつ残酷、非道な犯行で、血も涙も感じられない」として、両被告に死刑が言い渡された。二審判決では776人もの減刑嘆願が福岡高裁に送られ、緒方純子には無期懲役が言い渡された。この事件は一審、二審を経て現在も上告中である。松永、緒方両被告の有罪判決、量刑に関しての審理も大事だが、われわれはこの類まれなる事件より学習しなければならない。
この事件は”われわれの精神がいかに脆いか”を語っている。現代だろうが、昔だろうが、人のいい人間であろうが、理性的な人間であろうが、この種の罠にはまることを否定できない。ホロコースト生存者のレヴイの言葉を借りれば「われわれの人格は脆いものであって、生命よりはるかに危険に脅かされていることである」。例えばナチの強制収容所である男が「われわれは3月30日に開放される」という夢を見たといった。だが3月半ばを過ぎても戦況はよくならなかった。男は絶望した。そして3月28日にチフスが発病し、29日に意識不明になり、30日息をひきとった。病は気からとあるように、絶望を感じた瞬間から肉体も滅びる。それほど精神はセンシティブだし、たとえ屈強な元警察官であっても抵抗できない状態になってしまう。ナチの収容所で精神医学者ヴィクトール・フランクルは愛するものへのイメージを忘れなかった。どんなに過酷な状況でもけして希望を忘れなかった。開放された人々は一様にこの”愛するものへのイメージ”を維持できる人々であった。もし緒方被告らに“人生にイエスと言う※”ことができたならば、この事件の終末は避けられたのかもしれない。

※緒方被告が獄中で愛読している本『それでも人生にイエスと言う』肯定的に生きることこそ人生の意味であると説いた講演


<参考文献>
『消された一家―北九州・連続監禁殺人事件』 豊田 正義 著 新潮社
『少女監禁―「支配と服従」の密室で、いったい何が起きたのか』 佐木 隆三 著 青春出版社
『なぜ家族は殺し合ったのか』 佐木 隆三 著 プレイブックス・インテリジェンス
『心的外傷と回復』 ジュディス・L・ハーマン みすず書房
『それでも人生にイエスと言う』 V・E・フランクル 著 春秋社

YOMIURI ONLINE 連載「闇路」北九州市の監禁・殺人事件
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news-spe/kankin/yami/ka_yami_001.htm

霞っ子クラブ裁判傍聴記
http://bc.kasumikko.com/?eid=501262

埼玉 愛 犬 家 連続殺人事件

  1. 2008/03/16(日) 01:07:06|
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休日の昼下がり近くの公園を散策していた。向こうに人だかりが見え何だろうと思って近づくと、人だかりというか犬だかり。ドックショーが行われていた。彼ら(犬たち)は器用にハードルを飛び越え輪の中をジャンプしトンネルをくぐり華麗にスラロームを切り抜けてゆく。見事なものだ!と歓心していた。自分も犬を飼ったことがあるが、こんな風にはしつけられない。でもすべての犬が思ったとおりにコースを走れるとは限らない。スタート位置では、落ち着いている犬、他に気をとられている犬、やる気まんまんの犬。そしてスタートが切られると人間の予想を裏切り、けっして落ち着いている犬が落ち着いた走りをするとは限らないし、やる気まんまんの犬が猛然とをダッシュするとも限らない。たぶん練習では飼い主の指示通り走れるのだろう。でも本番となるとそうも行かない。他の犬がしきりに気になるのかもうすっちゃかめっちゃかだ。見ていると10匹中半分はコースをロストし戦意喪失。もう半分はロストしながらもふらふら飼い主の声援になんとか従いコースを完走。タイムをカウントし競技として成り立つのは集まった犬たち全体のほんの数パーセントにすぎない。賢い犬は飼い主のGoとともにロケットのごとくコースを駆け抜ける。ほんと見事なものだ!どうやったらこうしつけられるのだろうか?ブリーダーと呼ばれる人はすごいっ!ふと一人の人物を思い出した。関根元。シベリアンハスキーやアラスカンマラミュートを日本で最初に輸入し、チャンピオン犬を続々と排出したブリーダーだ。彼は犬の調教に関しては天才的だった。だがもうひとつ人並みはずれた特技をもっていた。それはやがて世の中を震撼させることになる。

<逮捕>
1995年明け埼玉県北部である男が殺人容疑で逮捕された。埼玉愛犬家連続殺人という見出しが躍り頭のはげた中年男が捜査員に連れられていくシーンがテレビに映った。時を同じく大阪でもブリーダーが容疑者の殺人事件がありこれは大阪愛犬家殺人と呼ばれていた。だが自分の記憶はここまででその全貌を知ることもなくこの事件の記憶はここで途絶える。なぜならその後阪神淡路大震災が起こりまた地下鉄サリン事件を契機に一連のオウム事件へとマスコミ報道が加熱していく。だがもしこの大震災やオウム事件がなければ埼玉愛犬家連続殺人は戦後最大の猟奇殺人事件として取り上げられていったはずだ。

<ボディーは透明>
「うわーきれい!」新緑の芽吹きと雪解けの水音は都会の喧騒を忘れさせる。片品川沿いをドライブしていると山並みと渓流の美しさに誰もが感嘆する。「ほんときれいだね…」だが美しく見える清流も時にはとんでもないものを押し流している。そう、ここには人の肉片が流れていたのだ。
ボディーを透明にする、関根はそういっていた。硝酸ストリキニーネで殺害したあと遺体は一晩でこの地上より跡形もなく消え去る。関根はこれを”ボディーを透明にする”といっていた。ほんとに一晩で遺体がなくなるのだろうか?以下志麻氏を取り調べた刑事とのやりとりで理解できる。

---「生きている人間には形があって、死ねば物になる。」
「でも形がなくなっても白い粉(骨)は残るよ。燃やすのか?燃やせば臭いが出るだろう」
「臭いはない。燃やすのは骨だけだから」
「関根はそこまでバラバラにするのか」
「どれも真っ白だよ。肉はとっくに魚のえさになってるはずだ」
「燃やすってあんなものがそんなに簡単にもえるのか」
「高温で燃やせば灰になる。火葬場と同じだよ」
「うーん…なるほど…」埼玉県警の10年越しの謎が解けた瞬間だった。
---<志麻永幸著/愛犬家連続殺人より>

事実埼玉県警は関根を過去にも一度逮捕しているが証拠不十分で釈放にした。関根は人間を2時間で解体できる。骨、内臓、肉に細分化し肉は2〜3センチの細切れにし川に捨て、骨は廃油で灰になるまで焼く。一晩で人間が跡形もなく消失する。これでは警察がいくらマークしても一瞬の隙があれば犯行を行える。

<殺しのオリンピック>
志麻氏によれば関根は35人殺していたようだ。立件できたのは4件。ヤクザでさえ関根のやり方に驚愕する。

---「普通の奴は人を殺したらそれでおしまいだ。あとは死体を沈めるか、埋めるかだろう。だがケンネルのやり方は違う。奴は残忍だ。あいつは死体をバラバラにして肉を削ぎ取る。その後包丁で肉をコマ切れにするんだ。肉と内臓もきっちり分けてな。脳みそも目玉もきれいにえぐりだすんだ。とても人間のやることじゃねえ。あんなことができるのは、この世であいつしかいない・・・」
---<志麻永幸著/愛犬家連続殺人より>

関根の女房、風間博子も尋常じゃない。何せ遺体解体作業をしながら鼻歌を歌ってるぐらいだからとんでもない。中村美津子の「河内おとこ節」をハミングしながら
「あんた、こんなやつの○ン○ン切るのやだから、あんたこれやってよ」
「おうっー」

関根は自画自賛で“殺しのオリンピック”があれば金メダルといっている。大久保清はバカだとか、イギリスの連続殺人犯もコケにしてる。不謹慎だが彼の遺体解体技術はそこまで洗練されていた。

関根はどんな人生を歩んできたのだろうか、彼は秩父で生まれ“ホラ吹きの元”と呼ばれていた。関根に限らず重犯罪者にはおしゃべりな奴というか虚言壁は多いらしい。志麻氏の本でこんなシーンがある。
---殺害された川崎さんが
「俺、日本に帰化してるけど、本当は在日韓国人なんだよ。本当は鄭っていうんだ」
関根「なんて偶然なんだ。実は俺も在日で鄭っていうんだ。なんて偶然なんだ。握手しよう。こいつ(山崎)も在日で本当は王っていうんだ」
王とはどう考えてもも中国人なのだが関根はそんなことおかまいなしだ。
---<志麻永幸著/愛犬家連続殺人より>

もうアホである。とてもコケティシュな面と凍りつくほど恐ろしい面がありおそらくその両方が関根の姿なのだろう。事実ケンネルを訪れる客にはおどろくほど丁寧で電話越しでも90度お辞儀をするくらい商売人としての儀礼にはたけていたようだ。

実際自分の友人の親が関根の店にいっている。犬を買いにアフリカケンネルを訪れたことがあったようだ。その人は柴犬を探していたのだが、関根にほかの犬(おそらくアラスカンマラミュートとか)を薦められたらしく商談は成立しなかったようだが、お茶など勧められて物腰のやわらかいごく普通のペットショプ店主にみえたようだ。でももし利殖の話でもされて深みにはまっていたらどうなったか分からない。関わり合いにならなくてよかった。

またおどろくほどきれい好きであったようだ。片品のポッポハウスに身を隠していた頃部屋はちりひとつ落ちていなかったようだし、遺体解体した後の浴槽もピカピカに磨き上げられていた。
その反面女には見境いなく金への執着はものすごかったようだ。その点は重犯罪者のイメージが一致しやすいのだが、こわいのは殺人鬼がある種の社会性を持ち合わせて我々と同じ社会で生業を立てているということだ。見た目区別がつかない。
関根は「世界は一家、人類はみな兄弟」で有名な某政治家ともつながりがあったといっていた。その政治家から頼まれて遺体の始末を行ったとか、おそらくホラ話なのだろうがそういう成り行きはまんざら奇抜に聞えない。裏社会の汚れ仕事を引き受ける人間は必ずいるはずだ。関根も同じ殺し屋があと10人はいるといっている。
平成13年3月一審浦和地裁で死刑。平成17年控訴棄却。現在も最高裁に上告中であるが、逮捕から13年もたった現在アフリカケンネルの敷地は整地されもう違う会社の所有となっている。

スコーク77〜日 航 機 墜落事故 に捧ぐ〜

  1. 2008/02/17(日) 01:11:52|
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スコーク77〜日 航 機 墜落事故 に捧ぐ〜
秋晴れのお台場は家族連れや若いカップルたちでにぎわっていた。学生だった頃10数年前は確かここには何もなかった。時の流れはこの場所を放送局やイベント施設の立ち並ぶ一大観光スポットへと変えていた。ふと空を見上げると数分ごとに大小さまざまな旅客機がお台場上空をかすめ羽田へと着陸してゆく。それはまるで華麗に現れては舞台のそでに返ってゆくファッションショーのようだった。その中でひと際目をひくのはジャンボと呼ばれるボーイング747の機影であった。その巨大な機体は大海をゆうゆうと往くくじらのようでもあった。息子は「ジャンボ!ジャンボ!」とおおはしゃぎだった。妻は「よくあんな大きいものが宙に浮くわね。何人くらいのれるのかしら?」「うーん確か500人くらい乗れるんじゃなかったっけ」ふと自分のなかにある数字が蘇ってきた。「500、、、500・・・524だ!」20数年前に起こったある事故の紙面である。
『羽田発大坂行きJAL123便、乗客乗員524人を乗せてレーダーから消える。長野・群馬県境の山岳地帯に墜落・・・』

1985年8月12日、羽田発大坂行きJAL123便は、乗客509人、乗員15人、合計524人を乗せて、午後6時12分に羽田を離陸したが、午後6時56分30秒、群馬県側の山岳地帯である高天原山に墜落―乗客のうち重傷4名は8月13日に救出されたものの、520人は還らぬ人となった。

**********************************
事故から20数年経っていた。高天原山のあの尾根に来ていた。時折雨が降りしきり地上とは異なる別の世界を感じていた。上野村には子供のころ家族旅行で訪れていた。鍾乳洞があってイノブタの郷土料理を食べた記憶がある。神流川に沿う国道299は当時来た頃も今もほとんど変わらない気がした。ただし上野村に入った頃からは見違えるような新しい道路と整備されたトンネルが現れた。そして浜平地区から御巣鷹の尾根へと続く道も途中のダムまではまるで有料道路のように整備されていた。しかしダムから先は落石注意の看板が現れ、一転して狭い山道になった。結局国道299より車止め(新)まで車で40分くらいかかった。少し前までは旧車止めからの登山ルート(2k)があり見返り峠を経て約2時間かかっていた。今はもう少し上に車止め(新)ができたおかげでそこから徒歩で700m沢を上ると尾根に付く(約20分)。それでもかなりの急騰で、決してハイキングコースのようなものではない。尾根に近づくと1D,2Eとか場所を区切る標識がでてきてそこには遭難者の墓標が散在した。尾根への道も急騰で平均傾斜30度の斜面だ。息せき切ってやっとのことで上りきった先がぱっと開けた。わずかな平らなスペースに昇魂の碑が現れた。花を手向け鐘の音とともに祈りをささげた。と同時に思わず涙が溢れた。不時着などでなくこの急峻な尾根に激突したのだ!そうあの時ここは地獄だった。−−−−−

<自衛隊/警察/消防団>
そこはまさに地獄だった。おびただしい残骸のなかに手や足や肉片が飛び散っていた。一瞬のうちに人間が物体と化す。屈強な男性も美しい女性も子供も老人も一瞬で肉片に変わる。理由など何もなく。こげたにおいは鼻をつきやがて強烈な腐臭に変わる。かつて感じたことのない臭いの恐怖であった。佐久間ニ槽は樹木にひっかかった人間に皮や黒く焦げた遺体をまのあたりにした。ホバリングするヘリは生い茂る樹木と燃料の匂いと肉片のスエタ臭いを一気にかき混ぜた。
人間の恐怖とは、得たいの知れない恐怖、不安、絶望感、理解しがたいものに恐れを感じる。明確なもの簡潔なものには恐怖を感じない。人は事実(死)を受け入れるまで恐怖と不安に苦しむ。昨日まで元気だったあの人がなぜ…という理解できない絶望感に、残された人々は突き落とされる。衝突時のスピードは263.7ノット(およそ480km/h)数百Gという衝撃に人間は死というより一瞬に原型を失う。事実機体前方部の遺体は地中深くまで埋まっていた。−−−−−

尾根を少し上に行くとトタンばりの小さな小屋があってその中に色あせた故人の写真や思いでの品が置いてあった。巨大な岩(X岩)があってそこから先にすすめない。道を迂回しまた少し登っていくと今度はおびただしい数の墓標の前に出た。上にも下にも前にも後ろにも細い道におおいかぶさるように墓標で埋め尽くされていた。520の墓標が立つこの山全体が墓なのだ。

<奇跡の生還者>
オチアイユミ、ヨシザキヒロコ、ヨシザキミキコ、カワカミケイコ。
当時非番でJAL123に乗り合わせたアシスタントパーサーだった落合さんの証言は極限状況、および事故原因を探る上で貴重な文章だ。ぜひ全文を読んでいただきたい。吉岡忍「墜落の夏」より
リンク<http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-index.htm>


<ディパーチャー>
その日の羽田ロビーはお盆前ということもあり帰省客やビジネス客でごった返していた。18時4分、123便は18番スポットを離れゆっくりと15番滑走路へ向かった。機内は帰省客やビジネス客でほぼ満席状態だった。

<パイロットたち:高原機長、佐々本副操縦士、福沢航空機関士>
クルーはその日は最後のフライトだった。(注1)
機長昇格を控えた佐々本(副操縦士)は左側(通常機長の座る位置)に座っていた。
JA8119機は離陸後羽田沖180度方向(南)に順調に高度を上げ館山沖で200度方向(南南西)に進路を変えていた。天候は快晴。いつになく夕日がまぶしかった。18時24分(離陸から12分後)、大島上空を過ぎ徐々に水平飛行へと入りつつあった。高度24000フィート(7200m)(注2)。

(注1:実際は航空機関士は前2回JA8119に、副操縦士は別の機に乗務し、機長は当日最初のフライトだった)
(注2:巡航高度の24000ft(7200m)へ向け上昇中、23900ft(7170m))

突然スチュワーデスからの内線が入った。
「・・・たいという方がいらっしゃるのですが、よろしいでしょうか?」
「気をつけて、じゃ気をつけてお願いします、手早く、気をつけてください」
〜ドーンという衝撃音〜(伊豆下田上空)

「なにか×××たぞ!」「ギアみてギア」高原はとっさに“スコーク77”を発信した。パイロットとしての直感だった。航空上での最高度のエマージェンシーコールである。果敢にACC(東京航空管制)との交信をおこなう。高原は飛行時間3900時間を越えるの優秀なパイロットだった。”多少のことでは動じない肝っ玉の据わったパイロット”と慕われ、同僚や後輩たちと飲んでいるときでもパイロットにとって一番大切なのは技術や知識よりも経験感だと説いていた。ジャンボはハイテク機であるがゆえ必ずそのフライト時の総重量を入力する。飛行距離による燃料や乗客数によりそのつど重心位置が変わり操縦に影響を与えるからだ。ある時チェックリストをみてこの乗客数と燃料にしては軽いなあと不審に感じた。気になって整備部に問い合わせたところキロとポンドを間違えて報告していたのだ。もし軽い重量をもとにフライトしていたら人為的な事故になっていたかもしれなかった。そして今また悪い予感は当たっていた。「ハイドロ全部ダメ!?」

<リターンバックトゥーハネダ>
JAL123「アー、東京管制部、こちらJAL123便、緊急・・トラブル発生、羽田に戻りたい、22000フィートまで降下する、どうぞ」
管制部「22000フィートまで降下ですね。了解、要求通り承認します」
JAL123「大島へのレーダー誘導をお願いします」
管制部「右旋回しますか、それとも左旋回?」
JAL123「右旋回に移っています。どうぞ」
管制部「右旋回して、磁方位90度(真東)、大島レーダー誘導します」
――山崎豊子著『沈まぬ太陽/御巣鷹山篇』(新潮社刊)より――

<アンコントローラブル>
その時すでに垂直尾翼の2/3が脱落していた。ハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムの4系統全てに損傷が及んで、エレベータ(昇降舵)やエルロン(補助翼)は殆ど操作不能となってしまった。もはや飛行機の艇をなしていなかった。垂直尾翼のないJA8119機は出来損ないの紙飛行機のように飛行し激しいダッチロールやフゴイドを繰り返した。舵は全くきかない。エンジンスロットルのみで機体を操縦していた。「これはだめかもわからんね」すでに手は尽くしたとわかったとき。しかし奇跡はおこるかもしれない・・・。−−−−−
−−−−−
パワーマックス!フラップアップ、フラップアップ、あたま上げろ、パワーー。ああだめだ。ー衝撃音ー。
ACC(東京航空管制)は必死に呼びかけていたが、18時56分02秒レーダー上にEMG点滅するJAL123の輝点がスッーと消えた。


<遺書/河口博次さん>
河口さんは異様な機体の飛び方に恐怖を感じた。「マリコ、津慶、千加子どうか仲良く。もう飛行機には乗りたくない。こんなことになるとは残念だ。さようなら。子供たちのことをよろしく頼む。今六時半だ。飛行機はまわりながら急速に降下中だ本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している」

<坂本九さん>
この事件に巻き込まれた一番の有名人とえば坂本九さんこと大島九氏である。彼は東京大阪間は通常全日空を利用していた。お盆前の混雑から全日空が取れなくJAL123に乗ってしまった。遺体には結婚式を挙げた笠間稲荷神社のペンダントが胸に突き刺さっていたことで身元が判明する。

<乗客/Kさん>
吉岡忍氏の「墜落の夏」にKさんのことが語られていた。落合さんを手伝い一緒にライフベストの装着の仕方を乗客の方に指導した会社員の方だ。吉岡氏の文章にもあるとおり極限状況の中で他人のために行動できるなんてできるもんじゃない。もし自分っだたらそんな勇敢に振舞えるだろうか。毛布かぶってブルブル震えるのがオチなんじゃないか。そんなことをふと考えた。

<生還>
落合由美、吉崎博子、吉崎美紀子、川上慶子
他に比べ比較的元気だった川上さんでもCPKという筋肉ダメージの数値は4万を超えていた(通常は数10cpk)。彼女らは数十Gという衝撃の中を奇跡的に生き抜いた。
生存した彼女らは遺書を書いていなかった。なぜ書かなかったのか?自分はふと疑問に思った。吉崎さんにしても「どこかに不時着するのだろうか」ぐらいにしか思っていなかったらしい。落合さんの見た機内でも泣きそうになってるのは男性ばかりだったとある。そこに女性の精神的・生物学的な強さを垣間見ないだろうか。
この事故後飛行機は後方部の方が安全だという話を聞いた。でもこれには全く根拠がない。なぜならこの事故の場合衝撃で機体が分断し機体後方部はちぎれて尾根を飛び越えている。そのとき植林樹の上をまるで歯ブラシの上を沿うように沢まで落ちた。これが衝撃を吸収できた要因らしいが自然樹なら堅いため衝撃吸収にならなかったかもしれないし、500Km/h以上で飛んできた鉄の塊の衝撃を吸収する角度やタイミングとはまさに奇跡でしか起こりえない。この奇跡と女性の精神的・生物学的な強さが生還につながったのではないだろうか。


<日航お客さま世話役(井上美代子さん)>
緊急に召集された乗客名簿520の一人の名前があてがわれた。
「こちらのお客様のご家族及びご親類の対応を頼む」井上さんはシュチュワーデスの教官だった「最悪の事態を想定して対応にあたってくれ」井上さんは××さんのご家族に藤岡市の対策本部前で始めて会った。「今後対応に当たります井上です。何かありましたら遠慮なく申しつけてください」困惑した家族は事の詳細を必死に聞き出そうとした。遺族は時にはかなり厳しい要求をぶつけることもあった。「不謹慎だ、スリッパを脱げ・・・」
井上さんは困惑していた。家族と鰻料理を食べにいったとき突然倒れ、そのまま意識不明になり亡くなった。

<検死医>
事故現場から少し離れた藤岡市民体育館の中でもうひとつの戦いが始まっていた。前代未門500人を越す遺体の検死作業である。盛夏である8月の体育館の中は摂氏30度を越す。恐るべき劣悪な環境の中検死医たちはもくもくと作業を続けた。「先生、チョットきてください」ある一角から声があがった。三つ目も頭部だった!あまりの衝撃のため別人の頭部がめりこんでいたのだ。体育館の裏の側溝には体長2.5センチにも達した蛆虫の死骸で埋まっていた。それにオーバーラップし当分の間白米の飯が食べられなかったという。


<上野村/仲沢勝美さん> 、
通称ナラカツ。そのあたりでは知る人ぞ知る人物であった。豪放磊落。若い頃は人を殺めてしまったこともある。トレードマークの鉢巻にとにかく声がでかい。でも日航の事故をきっかけに彼の人生も変わる。月命日の12日には必ず御巣鷹の尾根に上っていた。登山道を整備したり、高齢で山に登れない遺族のためにかわりに尾根の写真をとって送ってあげたり、遺族のために尽くされた。そんな彼も2006年1月脳梗塞のため倒れかえらぬ人となった。

<ラーメン風の子>
街道沿いにはコスモスが咲きほこる。もう少しすると群馬は厳しい冬を迎える。藤岡の古い町並みをすこしいくとラーメン風の子があった。当時と変わらない内装のようで自分はテーブル席に座っておもむろに中華そばを注文した。少しして家族ずれ4〜5人が来て奥の座敷を占有した。母親らしき人が携帯で「今風の子にいるんだけどさぁ、来る?」と上州なまりでしゃべっていた。店は古いがなじみの客がつく味自慢の店のようだ。無愛想に出て来たラーメンは手打ちでおいしい。20数年前飯塚さん等検死医スタッフは道をはさんだ体育館で戦っていた。ふと新聞のテレビ欄に目をやると思わず食べていた箸が止まった。その夜偶然にもクライマーズ・ハイの再放送の予定があったのだ。新しく立て替えられた市民ホールは時のながれを感じさせたが、日航機事故の碑とラーメン風の子はあの頃のままだった。

**あとがき**
世界最大の航空機事故は周知のようにボーイング社の圧力隔壁の補修ミスが原因で機体後部の圧力隔壁の破壊による機内与圧空気の急激な噴流により、垂直尾翼を噴き飛ばし、JAL123便は操縦不能となり、高天原山に墜落したということです(運輸省航空事故調査委員会の報告書より)
しかしそれでも今なお解明できない部分が多く残り、特に生存者の証言などからはこの圧力隔壁破壊説が正しいとは決していいきれません。それゆえ無人標的機ファイア・ビーなどによる外部破損説、フラッター現象説などさまざまな要因が信憑性を生み、20数年経ったむしろ現在の方がこの事故に関する関心の強さを感じます。
先日羽田空港の周りを歩いてきました。巨大航空産業が林立するあの一体には我々庶民には入り込めない独特の雰囲気があります。“ボーイングは国家なり”とあるように一機200億とも300億とも言われる航空機のハイテク技術及び政治的な駆け引きは永遠にこの事故を覆い隠すのでしょうか。この度のブログは事故原因についての究明ではありません。事故をきっかけにさまざまな人々が巻き込まれてしまったという事実をもう一度考えていただきたかったのです。あの日一晩中ラジオから流れる乗客名簿の読み出しを忘れることができません。ショックで一睡もできませんでした。もうこのような事故を繰り返してはなりません。JAL123便乗客乗員の方々、その御遺族の方達に心から哀悼の意を表します。そして自衛隊、消防、警察、検死医、日航職員、上野村、藤岡市の方々、その他この事故に人生を巻き込まれていった方々、その御尽力に敬意を表します。

2008年2月 横田タカン

<参考文献>
日航機墜落123便、捜索の真相 河村一男 イーストプレス
日航ジャンボ機墜落  朝日新聞の24時 朝日新聞社会部編 朝日新聞社
墜落の夏  日航123便事故全記録 吉岡 忍 新潮社
疑惑  JAL123便墜落事故 角田四郎 早稲田出版
墜落遺体  御巣鷹山の日航機123便 飯塚訓 講談社
墜落現場 遺された人たち―御巣鷹山、日航機123便の真実 飯塚 訓
JAL123便墜落「事故」真相解明 (御巣鷹山ファイル) 池田 昌昭
JAL123便は自衛隊が撃墜した (御巣鷹山ファイル) 池田 昌昭
沈まぬ太陽(三) 御巣鷹山篇 山崎豊子 新潮社
なにか云って 8・12日航機墜落事故26遺族の記録 池田知加恵
雪解けの尾根 日航機事故から11年 池田知加恵 ほおずき書房
クライマーズ・ハイ 横山秀夫 文藝春秋
御巣鷹の謎を追う 日航123便事故20年 米田憲司 宝島社
隠された証言 日航123便墜落事故 藤田日出男 新潮社
パイロットが空から学んだ危機管理術 坂井優基 インデックスコミュニケーションズ

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